エッセー&ショートストーリー
春の風
閉館間際になっても、空中庭園の屋上の回廊には鈴なりのカップルが思い思いの方向を向いて背中を並べていた。
「写真、撮ったげようか」
彼女は、今流行の最新モバイルをバックから出す。
「フラッシュたいたら、夜景、映らないぞ」
こんなときにつまらぬ理屈を言う自分がおかしい。
「ハイ、チーズ」
なんて昔流のフレーズを吐いて、モバイルが光った。
この時間帯になれば梅田のビル群の照明はあらかた消えかけているが、夜景は空中庭園ならではの美しさをまだ保っている。カップル達は景色を見ているようで、実はもう見てはいない。今、恋の只中にいる連中から発する切なさも、昔の恋が醸し出す甘酸っぱさも、中身は同じだ。空中庭園が纏う春の夜の空気を、陽炎のようにかすかに暖めているだけ。
彼女は15年前と同じように、
「ああ、ここは、もう空やね!」
と、髪を風になびかせた。
雲が黒い塊となって月明かりを遮っている。星明りに代わって、プロムナードには満天のミルキーウェイが浮かび上がっていた。こんなにきれいな光の帯の上を歩くのは、ライトアップされているようで照れくさい。僕達のように、ちょっと古い「カップル」には。
酔っていた。こみ上げてくる感傷を断ち切ることに努力しながら、彼女がモバイルに保存されたフォトを確認するのを黙って見つめていた。パチンというバックルの音を合図に、歩き出した。一瞬の迷いもなかったかのように。
彼女が手を取った。温かく、少し汗ばんでいた。
家まで送っていくよ、と心の中で言った。ガードマンがそっぽを向いている。ルミ・デッキのカップルがはしゃいでいる。LEDライトがいっせいに瞬いた。彼女の手に軽く力が入った。いい香りのする長い髪が腕に触れた。僕たちはルミ・スカイ・ウォークをゆっくりと歩いていった。
彼女のおでこに指を当てた。顔を上げる彼女。知り合って二十数年。これまで、このような場面で、このような思いで、この人の目を覗き込んだことはなかった。瞳に夜景が映り込んでいる。今風じゃない青みが入ったシルバーのアイシャドウ。胸のふくらみが僕の体に触れている。
おでこに持っていった指をポケットにしまいこむ。
彼女の唇がかすかに動いた。風を感じた。
彼女はにこりとして、今日はどうもありがとう、といった。コンマ数秒の躊躇がなにかを逃がしたことを知った。体が離れ、手が離れた。指の隙間から細かな星の砂がこぼれ落ちるように。
彼女は、じゃあまた、近いうちに、と背を向けた。一瞬前まで僕の手の中にあった手をちょこっと振って。
空中庭園には柔らかい風が吹き渡っていた。
(50歳代の男性からご寄稿いただきました)
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